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第5回 SOUP室内楽リサイタルの曲目のご紹介▶️詳細を見る

第5回プログラム(日本語)

目次

曲目の紹介

ショスタコーヴィッチ​

Dmitri Shostakovich

奏者の声

第3曲「エレジー」の2回目のレッスンでした。「あなたのは、エレジーじゃなくて、楽しそうですね」

Eriko先生のそのひと言に、私はハッとしました。たしかに私は、この曲を楽しい気持ちで弾いていたのです。弦のメロディは、私の中では平和的に響いていました。あたたかい日差しの中、芝生に寝転がり、静かに昔のことを思い出している——そんな牧歌的な情景を思い浮かべながら演奏していたのです。「Eriko先生、よくおわかりになるなあ」と感嘆するばかりでした。

では、第3曲のタイトル「エレジー」とは何なのでしょう。日本語訳の「哀歌」とは、いったいどんな歌なのか。調べてみると、エレジーとは「個人的で内省的な哀しみを表現した歌」と説明されています。

そう意識して複数のプロの演奏を聞いてみました。でも、まるで喜びを歌っているかのように聞こえる演奏ばかり。

どういうこと?

一般的にこのメロディは、やはり明るく心地よく響くのではないでしょうか。それを「エレジー」と名づけたことについて、Eriko先生は「ショスタコーヴィッチの皮肉ね」と笑っておられました。

では、どう演奏したらいいの?

それから、あらためて楽譜をよく見てみると、ところどころに不意に現れる不協和音があります。一見穏やかで美しい旋律の中に、わずかな違和感や影を差し込むーーその仕掛けこそが、この曲を単なる「美しい音楽」では終わらせないショスタコーヴィッチの作為なのでしょう。

でも、その不協和音を強調するかしないか、これは奏者に任されているのでしょうか。私の聞いた録音たちは、全くと言っていいほど不協和音が聞こえてこない演奏がほとんどでした。意図的にそうしているのでしょうか。私がショスタコなら、悲しい。

ピアノの師匠から「やりすぎてはいけない」としばしば注意されます。「たりない」「ちょうどよい」「やりすぎ」ーーその塩梅が難しい。

こんなことを数ヶ月考えながら、いろんな演奏を聴き比べているところで、ついに本番を迎えてしまいました。答えは見つかっていません。

ふと、そんな私を、天上からニヤリと見ている彼の顔が思い浮かびました。えっ?もしかしたら、奏者の迷いを楽しむための仕掛け??

ーーMika(Pf)

Дмитрий Шостакович 1970 е
1970年(63歳ごろ)

ドミートリィ・ショスタコーヴィッチ

生誕:1906年9月25日(ロシア帝国 サンクトペテルブルク)
死去:1975年8月9日(ソビエト連邦 モスクワ) 享年68歳

ショスタコーヴィチは、20世紀を代表する作曲家のひとりで、革命後のソ連という、政治の影響が非常に強い時代を生きました。彼の音楽は、美しさや力強さだけでなく、その時代を生きる中で感じた不安や葛藤を色濃く映し出しています。

1917年のロシア革命後、ソ連では「芸術は国家や人民のためにあるべきもの」と考えられていました。特に1930年代、指導者スターリンの時代には、音楽や文学に強い制限がかけられ、明るく、前向きで、国をたたえる内容が求められました。暗い感情や個人的な思いを表に出すことは許されず、反発すれば命の危険すらありました。

1925年、19歳で作曲した《交響曲第1番》で成功を収めますが、1936年(当時29歳)オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》が政府から激しく批判されます。ソ連共産党機関紙プラウダ紙に掲載されたショスタコーヴィチへの公式な糾弾記事のあとは、「毎晩、逮捕に備えてスーツケースを用意して寝ていた」と彼自身が後に語っています。

その後、彼は常に当局の目を意識しながら生きることになりました。表向きには国の求める音楽を書きつつ、心の奥では別の思いを抱え続ける——そんな緊張した状況が、彼の人生の大半を占めることになります。

そのため、ショスタコーヴィチの音楽は、一見すると明るく力強く聞こえても、どこか不安や違和感を感じさせることがあります。祝祭的な音楽の中に、皮肉や悲しみがひそんでいることも少なくありません。自由に気持ちを語れなかった時代に、音楽だけが本音を語る場所だったのです。

交響曲15曲、弦楽四重奏曲15曲をはじめ、協奏曲、室内楽、歌曲、映画音楽など、幅広いジャンルに多くの作品を残しました。特に弦楽四重奏曲には、公式な立場から離れた、作曲家自身の率直な感情が込められていると言われています。

国家に評価されながらも、常に恐れと緊張の中で生きたショスタコーヴィチ。その音楽は、単なる政治の記録ではなく、厳しい時代の中で、人が何を感じ、どのように生きようとしたのかを、静かに、しかし深く伝えてくれるものです。

Joseph Stalin in 1932 4 cropped2
スターリン ソビエト連邦最高指導者

5つのヴァイオリンとピアノのための小品

この作品は、ショスタコーヴィチ が書いた小品をもとに編まれた組曲で、もともとはより小さな編成や別の目的のために作られた音楽を、複数のヴァイオリンで演奏できる形にしたものです。ショスタコーヴィチは生計のために多くの映画音楽も手がけており、これらの小品の中にも、実際に映画で使われた旋律が含まれています。映画音楽らしい分かりやすさと即効性を備えながらも、旋律の中には、ほのかな影や皮肉、不安の気配が忍ばされており、単なる軽い音楽には終わりません。

映画の場面に寄り添うために書かれた音楽でありながら、演奏会用の作品としても高い完成度を持っている点に、ショスタコーヴィチの作曲家としての力量がよく表れています。明るさと影、親しみやすさと内面性が同居するこの小品集は、彼の音楽世界への入り口としても魅力的な作品です。

by nd

ベートーヴェン

Ludwig van Beethoven

奏者の声

今回初めてDuoを組むことになった Tomoka と Noriko ですが、実は知り合ってからはもう10年近くになります。同じピアノ教室に通っていながら、発表会で前後に演奏したり挨拶する程度で、実はTomoka がヴァイオリンを弾くということさえ知りませんでした。そんな2人をつないでくださったのが共通のピアノの先生で、そこから今回のDuo結成へとつながりました。

ピアノは基本的に “1対1の世界”。レッスンも練習も、一人でコツコツ向き合う時間がほとんどです。そんな中で、「同じ気持ちで悩み、笑い、励まし合える仲間ができた」というのは、本当に心強い出来事でした。

そして少し困った(?)共通点が一つ。2人とも少し “のんびり屋さん”。エンジンが本格的にかかってくるのは、だいたい本番が近づいてからです。それでもなんとか今日まで来られたのは、Sae先生 と Brandt先生 のおかげです。

今回の曲は、Brandt先生が私たちのために選んでくださいました。特に私(Noriko)はスケールが大の苦手で、つい後回しにしてしまうタイプ…。おそらくそれを見抜いたうえで、この曲を選んでくださったのだと思います。期待に応えようと頑張りつつ、実は今もまだ必死で格闘中です。

Brandt先生は、ヴァイオリンとピアノの掛け合いを、英語の苦手な私達にわかりやすく恋人や夫婦喧嘩に例えて説明してくださるので、難しいはずのレッスンがいつも笑いに包まれます。そのおかげで、緊張しがちな私たちも自然と肩の力が抜けていきます。

Sae先生からは、「音には必ず心とイメージを」と教わりました。一人で練習するときも、「お人形さんに聴かせるつもりで弾いてみて」と声をかけてくださり、音楽がただの “音の並び” ではなく、“想いのこもった表現” へと少しずつ変わっていきました。

英語も室内楽も初心者で、まだまだ学ぶことばかりですが、温かく、そして時に楽しく導いてくださるお二人の先生に、心から感謝しています。

ーーNoriko(Pf)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

生誕:1770年12月17日(神聖ローマ帝国 ケルン選帝侯領 ボン)
死去:1827年3月26日(オーストリア帝国 ウィーン) 享年56歳

ベートーヴェンは古典派の伝統を受け継ぎつつ、ロマン派への道を切り開いた革新的な作曲家です。

幼少期にテノール歌手の父親から苛烈とも言われる指導を受けた後、若くしてウィーンに上京。激情的な感情表現と緻密な構築性を兼ね備えた数多くの名作を生み出しました。30代から徐々に聴力を失い、やがて完全に聴覚を失うという極限の状況に直面しながらも、内なる音楽世界を深め、交響曲や室内楽、ピアノ曲など数多くの名作を生み出しました。交響曲第9番では初めて合唱を取り入れました。

彼は、音楽を限られた階級の娯楽から、個人の感情や人間の尊厳を表現する芸術へと高めました。また、貴族の庇護に頼らず、楽譜の販売や出版契約によって生計を立てるなど、自立した芸術家としての道を切り開きました。作曲家の社会的地位の向上を追求し、「芸術家は単なる職人ではなく、社会に影響を与える知識人である」という新しい役割を築いたのです。

1827年の死去時には、約2万人ものウィーン市民が葬儀に参列。これは人口の約8%に相当します。この大規模な葬儀は、ベートーヴェンがウィーンの文化と人々の心に深く根ざした存在だったことを示しています。

Beethoven1804 1805
1804年ごろ(34歳ごろ)

ヴァイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調「春」作品24 第1楽章

このソナタは、ベートーヴェンが29歳の頃、1801年ごろに作曲されました。

「春」という愛称はベートーヴェン自身が付けたものではありません。19世紀後半以降、音楽作品に親しみやすいニックネームをつける風潮があり、第1楽章の明るく伸びやかな旋律が春の訪れを思わせるとして、後世の聴衆が自然にそう呼ぶようになりました。

初演はベートーヴェン自身がピアノを担当し、若手ヴァイオリニストのイグナーツ・シュパンツィヒとともに演奏されました。

このソナタは、当時ベートーヴェンの支援者だった資産家のモルツィン伯爵に献呈されています。モルツィン伯爵は、芸術・文化に深い関心を持ち、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルトなどを支援した大銀行家でした。

「春」は、ベートーヴェンの作品の中でも特に人気が高く、220年以上にわたって演奏され続けている名作です。ヴァイオリンとピアノが対等に対話を交わすそのスタイルは、当時としては画期的で、今もなお聴衆を惹きつけてやみません。日本はもちろん、世界中の演奏会で愛されている、ベートーヴェンを代表するヴァイオリン・ソナタです。

by nd

ハイドン

Joseph Haydn

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

生誕1732年3月31日(神聖ローマ帝国 ローハウ)
死去1809年5月31日(オーストリア帝国 ウィーン) 享年77歳

ハイドンは、「交響曲の父」「弦楽四重奏の父」とも呼ばれ、古典派音楽の礎を築いた最重要人物のひとりです。モーツァルトやベートーヴェンに大きな影響を与え、後の西洋音楽の発展に決定的な役割を果たしました。

オーストリアの小さな町に生まれたハイドンは、少年時代にウィーンで聖歌隊員として音楽教育を受けたのち、貧しいフリーランスの音楽家として苦労を重ねました。やがてハンガリー貴族エステルハージ家の宮廷楽長として仕えることになり、その職に30年余りとどまりながら、膨大な数の交響曲、弦楽四重奏曲、ピアノ作品、オペラなどを手がけます。

この長期間にわたる宮廷生活の中で、ハイドンは孤立した環境にありながら、自由な創作の機会を得て独自の様式を育て上げました。彼は自らを「孤独によって創造力をかき立てられた」と語っており、その言葉どおり、形式の中に遊び心やユーモア、予想外の仕掛けを織り交ぜた作品は、聴く者を今なお魅了し続けています。

70歳を過ぎても創作意欲は衰えず、晩年にはオラトリオ《天地創造》などの傑作を生み出しました。ベートーヴェンの師としても知られ、温厚で誠実な人柄と、飽くなき音楽への探究心をあわせ持った、まさに「古典派の良心」と呼ぶにふさわしい作曲家です。

2025 1226 Master05 0253
ピアニスト佐々木美歌先生とのマスタークラス(2025年12月26日)

ピアノ三重奏曲 ト長調 Hob. XV:25「ジプシー・ロンド」第1楽章

この作品は、ハイドンが63歳のとき、2度目のロンドン滞在(1794–95年)の終盤に作曲された作品で、彼のピアノ三重奏曲の中でも最も有名なものの一つです。全3楽章からなり、特に終楽章に登場するジプシー風の主題によって、「ジプシー・ロンド」の愛称で広く親しまれています。

この曲は1795年、ハイドンがロンドンからウィーンに帰国する直前に完成されました。ロンドン滞在中、ハイドンは大きな成功を収めており、その音楽は貴族や市民を問わず、幅広い聴衆に歓迎されました。当時のロンドンは産業革命のただ中にあり、政治的にも文化的にも活気に満ちた都市で、音楽市場も発展していました。ハイドンは、ロンドンのサロン文化や演奏会事情に適応しながら、当時のトレンドであった明快で輝かしい作風を取り入れ、特にピアノを前面に押し出した三重奏曲を多数生み出しました。

第1楽章「Andante」は、優雅で親しみやすい主題で始まり、変奏曲的に展開されていきます。ヴァイオリンとチェロが控えめながらも効果的に絡み合い、ピアノが豊かな装飾と軽やかなリズムで全体をリードします。このようなスタイルは、ロンドンの洗練された聴衆を意識したハイドンの工夫とも言えるでしょう。

この作品は、ロンドン滞在中に知己を得た女性ピアニスト、レベッカ・シュレーターに献呈されたとされ、彼女との親密な関係も創作の背景にあるといわれています。63歳という年齢にもかかわらず、この作品には老成よりもむしろ遊び心、リズムの活力、そして民族的なエネルギーに満ちており、ハイドンの創造力がいかに最後まで衰えることがなかったかを感じさせます。

by nd

ハイドン

Haydn1

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

生誕1732年3月31日(神聖ローマ帝国 ローハウ)
死去1809年5月31日(オーストリア帝国 ウィーン) 享年77歳

前曲でのハイドンについての解説をもっと噛み砕いてみます。

ハイドンは、「交響曲の父」「弦楽四重奏の父」と呼ばれています。またしばしば、「古典派音楽の礎を築いた最重要人物のひとり」とも評されます。

これをひらたく言えば、ハイドンはクラシック音楽の“ルール”や“型”を整えた人です。

もしハイドンがいなかったら、「第1楽章はこう始まる」「ここで展開部に入る」といった、私たちがごく自然に感じている音楽の流れや構造そのものが、存在しなかったかもしれません。

ハイドンは、疑いようもなく偉大な作曲家です。その偉大さを他分野にたとえるなら、ファッション界では「ココ・シャネル」、柔道なら「嘉納治五郎」、茶の湯でいえば「千利休」といったところでしょうか。いずれも、それ以前の流れを整理し、「基準」や「型」を作り上げた人物たちです。ハイドンもまた、音楽史において同じような役割を果たしました。

ハイドンは、モーツァルトの年上の友人であり、ベートーヴェンの師でもありました。後世に名を残す二人の天才に、決定的な影響を与えた存在です。

言い換えれば、天才モーツァルトは「型を磨くための土台」をハイドンから学びました。もしハイドンがいなければ、モーツァルトはもっと奔放で、整理されない作曲家として終わっていた可能性もあります。

また、壊すべき「完成されたハイドンの型」がなければ、ベートーヴェンの革命的な飛躍も生まれなかったでしょう。

2025 1226 Master05 0044
ピアニスト佐々木美歌先生とのマスタークラス(2025年12月26日)

ピアノ三重奏曲 ト長調 Hob. XV:28 第1楽章、第2楽章

この曲は、ハイドンが 60代半ば(1796〜97年頃)、作曲家としても人生としても、もっとも充実し、自由を手にしていた時期に書かれた作品です。それまでの彼の人生から紐解いてみましょう。

長かった「宮廷音楽化」時代

ハイドンは30年以上にわたり、エステルハージ家に仕える宮廷楽長として働いてきました。安定した立場ではありましたが、つねに新作を求められ、王侯貴族の好みや都合に縛られ、ウィーンなどの音楽都市から離れた生活で、自由な創作環境とは言えませんでした。

1790年、人生が大きく動く

1790年、長年仕えた侯爵の死去により、ハイドンは事実上「自由契約」の作曲家となります。これは当時としては極めて珍しいことでした。作曲家の多くは、教会か宮廷に属するのが当たり前だった時代です。

ロンドンでの大成功

自由を得たハイドンはロンドンへ渡り、公開コンサートで自作を指揮・演奏します。結果は――大成功。会場は連日満員、交響曲は熱狂的に迎えられ、楽譜は高値で売れ、ヨーロッパ随一の「現役の巨匠」として称賛されました。その結果、経済的にも精神的にも、ハイドンは完全に自立しました。

「もう無理をしなくていい」境地

こうした経験を経た60代のハイドンは、誰かに証明する必要も、背伸びをする必要もありませんでした。だからこそこの時期の作品には、肩の力が抜けた自然さ、無駄のない構成、さりげないユーモア、そして、人生を知った人だけが持つ温かさが感じられます。

第1楽章の明るさは、若さの勢いではなく、「すべて分かった上で楽しんでいる大人の余裕」。第2楽章の静けさは、悲嘆や苦悩ではなく、人生を受け入れた人の穏やかなまなざしのようです。

シンプルに聞こえる音楽ほど、実は長い経験と洗練の結晶なのだと、この作品は教えてくれます。

Schloss Esterhazy Geschichte historisch cEsterhazy
エステルハージ家の屋敷

by nd

ドヴォルザーク

Antonín Dvořák

奏者の声

ピアノ五重奏曲第2番イ長調作品81番は、「スラブ民族の音楽家」として国際的な認知も得つつあり作曲家として円熟期にあったドヴォルザークが、1887年に作曲に着手し、翌 1888年1月6日にプラハで初演された作品です。

シューマン、ブラームスの作品とともに、クラシック界の三大ピアノ五重奏曲として広く親しまれています。

本作は、ドヴォルザークらしいボヘミア民族音楽の色彩が深く織り込まれる一方、ソナタ形式の構成力も併せ持った“民族性と古典美の融合”と呼ぶにふさわしい作品といえます。

 

演奏者5名は、4ヶ月前に初対面で結成されたメンバーです。

最初のレッスンでは、David先生とEriko先生に「熱意は十分伝わるんだけど……」と絶句されてしまう場面もありましたが、先生方の的確かつ熱心で前向きに諦めないご指導に支えられ、Never give up の精神で真摯に取り組んでまいりました。

今回は第1楽章のみの演奏ではありますが、その中に詰め込まれた素朴な温かみ、雄大な広がり、哀愁と抒情性、野性味、そして内側から力強く輝く生命力を、精いっぱい演奏したいと思っています。

ーーYuuka(Vn)

アントニン・ドヴォルザーク

生誕1841年9月8日(オーストリア帝国 ボヘミア)
死去1904年5月1日(オーストリア=ハンガリー帝国 プラハ)享年62歳

ドヴォルザークは、チェコ(当時のボヘミア)生まれの作曲家です。

幼いころは村の肉屋の息子として育ち、最初は肉屋の修業をする予定でしたが、音楽への情熱を捨てきれず、オルガン学校へ進学。オーケストラではビオラ奏者として活躍。独学で学んだ作曲は、後にブラームスにその才能を認められ、彼の推薦を受けてウィーンで出版デビューを果たしました。

ドヴォルザークの音楽には、チェコの民族舞曲や民謡のようなリズム・響きが自然に織り込まれており、素朴さと詩情、時には力強さも感じさせます。特に有名なのが「新世界より」交響曲ですが、室内楽にも数々の名作があり、親しみやすく、時に心にぐっと迫るような美しさがあります。

ちなみに、少年時代は鉄道技師に憧れたドヴォルザーク。鉄道オタクだったことでも知られています。作曲家として大成功を収めた後も、駅に立ち寄っては汽車を眺め、列車の時刻表を読むのが大好きだったとか。アメリカ滞在中も「作曲の邪魔をしない範囲で、近くの線路の見える部屋にしてほしい」と頼んだという逸話も残っています。クラシック音楽の巨匠でありながら、自然と人間味あふれる人柄が音楽からも感じられます。

Dvorak Antonin rodina USA
アントニンとその家族(1893年ニューヨーク)

ピアノ五重奏曲 第2番 イ長調 作品81 第1楽章

Allegro con fuoco(速く、情熱をもって)

ドヴォルザークは、生涯に2曲のピアノ五重奏曲を残しています。この二つの作品は、作曲家ドヴォルザークの成長を映し出す、貴重な対照として聴くことができます。

第1番は1872年頃、31歳前後のときに書かれた作品です。まだ評価が定まる前の時期で、作曲家として模索を続けながらも、あふれるアイデアと若々しい情熱を、そのまま音にしたような印象があります。音楽は勢いに満ちていますが、アンサンブルの扱いには、試行錯誤の跡も感じられます。

それから15年以上の歳月を経て書かれたのが、今回演奏される第2番です。46歳頃という円熟期の作品で、この頃のドヴォルザークは、音楽の流れや構成、楽器同士のバランスを自然に見渡せるだけの経験を積んでいました。そのため、五人の奏者が対等に音楽を語り合う、完成度の高い室内楽となっています。

同じ調性、同じ編成でありながら、第1番には「若さゆえの勢い」が、第2番には「経験に裏打ちされた余裕と深み」が、はっきりと表れています。

by nd

ラヴェル

Ravel

モーリス・ラヴェル

生誕1875年3月7日(フランス第三共和政 バスク地方 シブール
死去1937年12月28日(フランス共和国 パリ) 享年62歳

ラヴェルは、20世紀フランス音楽を代表する作曲家のひとりです。しばしばドビュッシーと並んで「印象主義」と語られますが、その音楽は感覚的というよりも、きわめて理知的で精密に設計された美しさを特徴としています。透明で洗練された響きの背後には、明確な構造と緊張感が常に保たれています。

幼少期から優れた才能を示し、パリ音楽院で作曲を学んだラヴェルは、和声、リズム、楽器法において比類のない完成度を追求しました。スペイン音楽や舞曲、古典舞曲への関心も深く、色彩豊かな音響の中に、緻密に組み上げられた音楽の骨格が感じられます。また、管弦楽法の名手としても知られ、室内楽やピアノ作品であっても、その書法はきわめてオーケストラ的です。

一方でラヴェルは、少し風変わりで、強いこだわりをもった人物でもありました。若い頃、フランス最高峰の作曲賞であるローマ賞に何度も挑戦しましたが、結果はすべて落選。当時すでに評価の高い作品を書いていたにもかかわらず、この結果は大きな議論を呼び、「ラヴェル事件」として音楽界を揺るがしました。皮肉なことに、この出来事によって彼の名は一気に広く知られるようになります。

また、極端なまでに几帳面な性格でも知られ、作品の完成には非常に時間をかけました。「なぜもっと多くの作品を書かないのか」と問われた際には、「書きたい音はすでに頭の中にすべてある。ただ、それを正しい形で書くのに時間がかかるだけだ」と語ったと伝えられています。

自宅にからくり人形や精巧な機械を集めていたという逸話もあり、その嗜好は、歯車のように噛み合う彼の音楽構造とも重なります。

ラヴェルの音楽は、感情を直接的に語るのではなく、完璧に磨き上げられた音の造形そのものによって、深い余韻を残すものです。理知と感性、職人の厳しさと少し風変わりな人間味——その両面が、ラヴェルという作曲家の魅力を形づくっています。

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ラヴェルの生誕地 バスク地方シブール(フランス)

ピアノ三重奏曲 イ短調 全4楽章

第1楽章 Modéré(ほどよい速さで)

バスク地方の舞曲に由来する不規則なリズムを基調とし、独特の浮遊感と推進力を併せ持っています。ピアノ、ヴァイオリン、チェロはいずれも対等な存在として扱われ、音色とリズムが精密に噛み合いながら、透明でありながら緊張をはらんだ音楽が展開されます。

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第2楽章 Pantoum(Assez vif/かなり速く)

「Pantoum(パントゥム)」は、もともとマレー詩(パンチュン)に由来する詩の形式です。

特徴は、以下の重層的な構造にあります。

  • 複数の詩行が交互に絡み合う
  • 前の行が、形を変えて次に現れる
  • 二つの流れが同時進行する

ラヴェルはこの詩の構造を、音楽でそのまま再現しようとしました。

また、この楽章では、異なるリズムが同時に進行します。たとえば、ピアノは2拍子系、弦は3拍子系で、それぞれが独立しているのに、破綻せず噛み合います。また、主題が断片化され、別の声部で変形して再登場します。つまり、この楽章は、ひとつの音楽ではなく、複数の音楽が同時に走っているように聴こえるのが最大の特徴です。

第3楽章 Passacaille(Très large/非常にゆったりと、雄大に)

静かで瞑想的な雰囲気に包まれ、夜のような深い抒情が広がります。単純な旋律が少しずつ形を変えながら重なり合い、時間が引き伸ばされたかのような感覚を生み出します。

第4楽章 Final(Animé/活発に、生き生きと)

ピアノと弦楽器が目まぐるしく役割を交代しながら、強い推進力を生み出します。複雑なリズムや技巧的な書法が用いられていますが、音楽は決して重くならず、透明感と鋭さを保ったまま展開します。その軽やかさと精密さの同居は、ラヴェルならではの魅力と言えるでしょう。

精密さと情熱、理知と感性が高い次元で融合したこのピアノ三重奏曲は、ラヴェルの室内楽作品の中でもとりわけ完成度の高い傑作とされています。

by nd

メンデルスゾーン

Mendelssohn

フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ

生誕1809年2月3日(独 ハンブルク
死去1847年11月4日(独 ライプツィヒ) 享年38

幼い頃から神童として知られ、恵まれた家庭環境のもとで幅広い教養と音楽教育を受けました。そのため、彼の音楽には知性と品のよさが自然に表れています。

彼が生きたのはロマン派の時代ですが、音楽の性格はとてもバランスがよく、整った形と明るく透明な響き、そして口ずさみたくなるような旋律が特徴です。感情を激しくむき出しにするのではなく、感情を美しく整理して表現する作曲家だといえるでしょう。

作品のジャンルは非常に幅広く、交響曲、協奏曲、室内楽、ピアノ曲、宗教曲など、どれも完成度が高いのが特徴です。とくに室内楽やピアノ三重奏曲では、各楽器が会話するように音楽が進んでいく楽しさを感じることができます。

またメンデルスゾーンは、指揮者・音楽文化の担い手としても非常に重要な人物でした。1835年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督に就任すると、オーケストラの演奏水準を大きく高め、透明で整理された響きを確立しました。演奏会の内容や運営にも深く関わり、近代的なオーケストラ文化の基礎を築いた人物とされています。

さらに音楽史における最大の功績のひとつが、忘れられていたヨハン・セバスティアン・バッハの音楽を再び世に紹介したことです。1829年、メンデルスゾーンは《マタイ受難曲》を約100年ぶりに公演し、大きな反響を呼びました。この演奏をきっかけにバッハの評価は急速に高まり、今日私たちがバッハを「音楽史上最大の作曲家のひとり」として知っている背景には、メンデルスゾーンの存在があります。

38歳という若さで亡くなりましたが、彼の音楽と功績は今も世界中で生き続けています。

Die Gartenlaube 1881 b 791
ゲヴァントハウス管弦楽団の偉大な指揮者たち(中心がメンデルスゾーン)
ゲヴァントハウス
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

ピアノ三重奏曲 第一番 二短調 作品49 全4楽章

メンデルスゾーン円熟期の代表作であり、ロマン派の情熱と古典的な構成美が見事に融合した名作中の名作です。そして、メンデルスゾーン自身が他者の助言を真摯に受け入れ、作品を大きく成長させた稀有な例として知られています。

この三重奏曲は1839年に完成しましたが、初稿を聴いた親友のフェルディナント・ヒラー指揮者、作曲家、ピアニスト)から率直な意見を受けます。

「音楽はすばらしい。でも、ピアノがあまりにも控えめだ。」

当時すでに名声を得ていたメンデルスゾーンでしたが、この意見を拒まず、ほぼ完成していた作品を大胆に改訂します。

改訂によって、ピアノはより立体的で技巧的になりました。そして、和声の推進力を担う役割と、弦との対話がより鮮明になりました。

しかし重要なのは、「ピアノが主役になったわけではない」という点です。メンデルスゾーンは、「ピアノ三重奏=ピアノ付き二重奏」になることを避け、三者が対等に競い合う関係を目指しました。

その結果、今日でも「ピアノ三重奏の理想形のひとつ」と評価されています。

Ferdinand Hiller
フェルディナント・ヒラー

第1楽章 Molto allegro ed agitato(非常に速く、そして激しく揺れ動くように)

力強く切迫した主題で始まり、冒頭から緊張感に満ちた音楽が展開されます。ピアノの躍動的な動きに、弦楽器が鋭く呼応し、内に秘めた情熱と推進力が止まることなく前へ進んでいきます。

劇的ではありますが、構成は非常に整理されており、激しさの中にも明快さと均衡が保たれている、メンデルスゾーンらしい楽章です。

第2楽章 Andante con moto tranquillo(穏やかな動きをもって)

この楽章は、メンデルスゾーンが得意とした「無言歌(Lieder ohne Worte)」の世界観に最も近い部分とされています。実際、彼自身も「言葉のない歌」を室内楽に持ち込むことを好みました。

第3楽章 Scherzo : Leggiero e vivace(軽やかに、そして生き生きと)

このスケルツォは、メンデルスゾーンの代名詞ともいえる「妖精的スケルツォ」の典型例です。彼が若い頃に書いた《真夏の夜の夢》序曲の世界と通じるものがあり、同時代の音楽家たちも「どうやってこんな軽さが書けるのか」と驚いたと伝えられています。

第4楽章 Finale : Allegro assai appassionato(きわめて速く、情熱的に)

終楽章は、初演当時から「聴衆を一気に引き込むフィナーレ」として高く評価されました。第1楽章の緊張感を思わせる素材が再び現れ、全曲をひとつの物語としてまとめ上げています。とりわけ完成度の高い傑作とされています。

この作品を聴いたロベルト・シューマンは、音楽雑誌に次のような言葉を残しています。

「これは、ベートーヴェン、シューベルトと並ぶ、現代のピアノ三重奏曲である。」

これは当時としては破格の評価でした。同時代の作曲家を、すでに「歴史的巨匠」と並べて語ることは非常に珍しかったのです。

by nd

シューマン

Robert Schumann

奏者の声

シューマンの創作後期(1851年)作曲の本ソナタはこの時期のシューマン特有の不安定な精神性が色濃く表れた作品です。

第1楽章は「情熱的な表現をもって」と指示がありヴァイオリンとピアノ両者が激しい感情の揺らぎと抑制の間を行きかいながら緊密な対話を繰り広げていきます。

この深い精神的ドラマを湛えている作品を演奏させて頂くMichiko・Erikoは組んで3年、この作品で6作品目となるDuoです。SOUPで出会った私たち。David先生とEriko先生が私たちDuoの今を考えて提案して下さる曲に共に取り組む事を楽しみながら練習を続けています。

ただErikoには1つ問題が。レッスンが英語であること。この問題を先生方の優しいお気遣いとMicikoの素晴らしい通訳で乗り切ることができていることをいつも感謝しています。笑顔溢れるDuoですが、今回はいかに「不安、緊張感」を表現できるかが課題です。新たな挑戦となりました。

ーーEriko(Pf)

ロベルト・シューマン

生誕:1810年6月8日(ザクセン王国 ツヴィッカウ)
死去:1856年7月29日(プロイセン王国 エンデニヒ)享年46歳

シューマンは、ロマン派を代表するドイツの作曲家であり、音楽評論家、そして文学的感性に富んだ芸術家です。若い頃はピアニストを志しましたが、指の故障により演奏家の道を断念。その後は作曲と評論活動に専念し、「音楽と文学の融合」を目指す詩的な作品を数多く生み出しました。

1830年代には音楽雑誌『新音楽時報』を創刊し、ショパン、ベルリオーズ、ブラームスなどの新進気鋭の作曲家たちを世に送り出す批評家としても活躍しました。

また、ピアニストのクララ・ヴィークとの情熱的な恋愛と結婚も有名で、彼女は生涯にわたり彼の創作と精神の支えとなりました。

晩年は精神疾患に悩まされ、1854年には精神的な苦しみのあまりライン川に身を投じ、自殺を試みましたが未遂に終わりました。その後、精神療養施設エンデニヒに収容され、そこで最期の2年を静かに過ごし、46歳でこの世を去りました。

精神の闇に苦しみながらも、シューマンの音楽は内面世界を深く掘り下げた誠実で情熱的な美しさをたたえており、現在も多くの聴衆の心を打ち続けています。

Robert Schumann Haus
シューマンの生家の音楽室

ヴァイオリン・ソナタ 第1番 イ短調 第1楽章

このソナタは、1851年、シューマンがドイツ・デュッセルドルフで活動していた時期に作曲されました。のちに精神的な危機を迎える作曲家ですが、この頃はライン音楽祭での活動や指揮者としての仕事に加え、室内楽や管弦楽作品を集中的に書くなど、創作意欲にあふれていました。

第1楽章は、切迫した情熱を帯びた主題で始まります。ヴァイオリンは歌うようでありながらどこか不安定さを含み、心の奥から湧き上がる感情をそのまま語りかけるかのようです。ピアノは単なる伴奏ではなく、和声とリズムのうねりによって音楽に緊張感を与え、二つの楽器は濃密なかけあいを繰り広げます。

形式はソナタ形式を基盤としつつも、はっきりとした区切りより感情の流れが大切にされています。主題の断片が姿を変えながら現れ、時に激しく、時に内向的に展開していくさまは、シューマンならではのロマン派的な表現と言えるでしょう。

重い病の中で書かれた作品ではありませんが、この楽章に漂う落ち着かない情熱や陰影には、明るさと不安、理性と感情がせめぎ合う、人間らしい心の動きが感じられます。激しさの中にひそむ繊細さ――それこそが、この第1楽章の大きな魅力です。

by nd

シューベルト

Franz Schubert

奏者の声

詩の内容は「船着場から逆らいようもない河の流れに乗って大海原に旅立つ主人公が恋人や故郷に別れを告げる」というところです。

でも私たちの中で話し合ううちに、別なイメージも湧いてきました。

若い頃から病弱だったシューベルトは、ずっと「死」を意識してきました。それをテーマにした曲は他にも数多くあります。そう考えてみると、この曲も死出の旅立ちによく見知った星に導かれて昇天するかの様に終わるのです。

実際に彼はこの曲を完成すると、その年のうちに亡くなりました。シューベルトの最晩年の曲です。

このアンサンブルは、歌とホルンとピアノという、とても珍しい組み合わせになっています。それに挑戦しようと思った三人が集まりました。常にはない構成に頭を悩ませることもしばしばありました。そんな私たちの演奏ですがお楽しみ頂けたら幸いです。

ーーNaomi(ソプラノ)

Schubert Klimt
「ピアノを弾くシューベルト」クリムト(1899年)

フランツ・シューベルト

生誕:1810年6月8日(ザクセン王国 ツヴィッカウ)
死去:1856年7月29日(プロイセン王国 エンデニヒ)享年46歳

シューベルトは、古典派の整った形式を受け継ぎながら、ロマン派的な抒情性や内面の感情表現を音楽に深く取り入れた作曲家です。とくに歌曲の分野で、詩と音楽を緊密に結びつけ、人の心の動きを音楽で描く新しい表現を切り開きました。

ウィーン近郊に生まれ、学校教師であった父のもとで育ったシューベルトは、幼い頃から音楽の才能を示します。少年合唱団員として宮廷礼拝堂で歌いながら、作曲と演奏の基礎を学びました。同じウィーンでベートーヴェンが活躍していた時代を生きましたが、シューベルト自身は生前、名声や高い社会的地位を得ることはありませんでした。親しい友人たちに支えられながら、静かに創作を続けたその姿勢は、繊細で自然な旋律美に満ちた作品にもよく表れています。

31年という短い生涯の中で、シューベルトは600曲以上の歌曲をはじめ、交響曲、室内楽、ピアノ曲、宗教曲など、非常に多くの作品を残しました。《魔王》《野ばら》《冬の旅》《白鳥の歌》などの歌曲では、孤独や愛、絶望や希望といった人間の感情が、詩と音楽の結びつきによって深く表現されています。また、晩年の室内楽やピアノ・ソナタには、静かでありながら奥行きのある独自の音楽世界が広がっています。

しかし、こうした作品の多くは、生前に出版や演奏の機会を得ることなく埋もれていました。シューベルトの死後、1838年に作曲家・批評家のロベルト・シューマンが未発表の自筆譜を発見し、交響曲ハ長調 D944「グレート」を高く評価して世に紹介します。さらにフェリックス・メンデルスゾーンがこの作品を指揮・初演したことで、シューベルトが優れた交響曲作家でもあったことが広く知られるようになりました。

これらの再評価を通じて、シューベルトはロマン派音楽の重要な礎を築いた作曲家として位置づけられます。派手さや英雄的な力強さではなく、人の心に静かに寄り添う音楽。その深い抒情性と人間味あふれる表現は、今もなお多くの人々の共感を集め続けています。

歌曲《流れの上で》 D 943

1828年、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン の一周忌追悼演奏会のために作曲された作品です。

ベートーヴェンと シューベルト は、およそ30年にわたり同じ時代を生き、晩年の10年ほどは同じウィーンに暮らしていました。二人の間に深い交流はありませんでしたが、シューベルトは生涯を通じてベートーヴェンを深く尊敬しており、1827年の葬儀では、棺を担いだ16人のうちの一人として参列しています。

Beethoven Funerals without frame
ベートーヴェンの葬儀の行進(1827年)

この作品の詩は、詩人 ルートヴィヒ・レルシュタープによるものです。流れゆく大河を見つめながら、過ぎ去った日々や失われた愛を思い返す内容で、静かな哀しみと諦観が漂っています。川の流れは、戻ることのできない時間や人生そのものを象徴しており、音楽もまた、感情を抑えた穏やかな語り口で進んでいきます。

31歳という若すぎる死を迎えた年に書かれたこの作品には、派手さはありませんが、深い内面の感情が静かに映し出されています。《流れの上で》は、ベートーヴェンへの追悼であると同時に、シューベルト自身の人生や心情とも重なる、晩年を代表する歌曲のひとつです。

 

Ludwig Rellstab
ルートヴィヒ・レルシュタープ
《Auf dem Strom》 

原詩(ドイツ語)

Nimm die letzten Abschiedsküsse,

Und die wehenden,die Grüsse,

Die ich noch ans Ufer sende

Eh’ dein Fuss sich scheidend wende!

 

Schon wird von des Stromes Wogen

Rasch der Nachen fortgezogen,

Doch den tränendunklen Blick

Zieht die Sehnsucht stets zurück!

 

Und so trägt mich denn die Welle

Fort mit unerflehter Schnelle.

Ach,schon ist die Flur verschwunden,

Wo ich selig Sie gefunden!

 

Ewig hin,ihr Wonnetage!

Hoffnungsleer verhallt die Klage

Um das schöne Heimatland,

Wo ich ihre Liebe fand.

 

Sieh,wie flieht der Strand vorüber,

Und wie drängt es mich hinüber,

Zieht mit unnennbaren Banden,

An der Hütte dort zu landen,

 

In der Laube dort zu weilen;

Doch des Stromes Wellen eilen

Weiter ohne Rast und Ruh,

Führen mich dem Weltmeer zu.

 

Ach,vor jener dunklen Wüste,

Fern von jeder heitern Küste,

Wo kein Eiland zu erschauen,

O,wie fasst mich zitternd Grauen!

 

Wehmutstränen sanft zu bringen,

Kann kein Lied vom Ufer dringen;

Nur der Sturm weht kalt daher,

Durch das graugehobne Meer!

 

Kann des Auges sehnend Schweifen

Keine Ufer mehr ergreifen,

Nun,so schau ich zu den Sternen

Auf in jenen heil’gen Fernen!

 

Ach,bei ihrem milden Scheine

Nannt ich sie zuerst die Meine;

Dort vielleicht,o tröstend Glück!

Dort begegn’ ich ihrem Blick.

 

Bei der Sterne mildem Scheine

Nannt ich sie zuerst die Meine;

Dort vielleicht,o tröstend Glück!

Dort begegn’ ich ihrem Blick.

《流れの上で》

受けておくれ 最後のお別れのキスを

風に乗ってゆく このあいさつ

私が岸辺にずっと送り続けているあいさつを

あなたが踵を決意して返してしまうまでは!

 

もう流れの波にもまれて

すばやく小舟は走り去って行く

けれど涙で曇ったまなざしで

あこがれはずっと後ろを振り向いている

 

こうして私を波は運び去って行く

彼方へと 望んでもいないすばやさで

ああ もはや牧場も消え去ってしまった

私が幸せにあの人を見つけたあの場所も!

 

永遠のお別れだ お前たち幸せだった日々よ!

希望をなくして嘆きはこだまする

美しいふるさとのまわり

私がかつてあの人の愛を見つけたところに

 

見よ 何とすばやく岸辺は飛び去って行くのか

そして何と私を帰りたい気持ちにさせるのだ

言いようのない絆に惹かれて

あそこの小屋のところに降り立ちたいと

 

あそこの木陰に留まりたいと

だがこの波の流れは速くて

突き進むのだ 止まることも休むこともなく

私を大海原へと運んで行く

 

ああ あの陰鬱な荒海の向こう

あの明るい岸辺からも遠く離れて

島ひとつ見えないところ

おお どうして私をこの震える恐怖は捕らえるのか!

 

憂鬱な涙を穏やかにもたらすように

どんな歌ももはや岸辺には届かない

ただ風だけが冷たくここを吹き過ぎて行く

灰色に膨れ上がる海の上を

 

憧れに満ちて瞳を見上げても

もはや岸辺ひとつ見えはしない

そこで私は星を見上げる

あの聖なる彼方にある星を!

 

ああ その穏やかな輝きのもとで

私は初めてあの人を私のものと呼んだのだ

あそこには多分 慰めに満ちた幸福がある

あそこで私はあの人のまなざしにまた会えるのだ

 

その穏やかな輝きのもとで

私は初めてあの人を私のものと呼んだのだ

あそこには多分 慰めに満ちた幸福がある

あそこで私はあの人のまなざしにまた会えるのだ

楽器に取り組んでいると、無意識のうちに「自分が演奏する楽器の作品」だけを聴くようになる傾向があります。ピアノを学ぶ人はピアノ曲、ヴァイオリンを学ぶ人は弦楽器作品——自然なことですが、その結果、音楽をより広い視点で捉える機会が限られてしまうのではないでしょうか。

SOUPリサイタルでは、ご自身では選ばない作品や編成に触れていただくことで、音楽を立体的に理解していただくことを目指しています。その体験が、ご自分の演奏技術以上に、音楽表現そのものへの理解を深めてくれるでしょう。

歌というと、オペラや《第九》、またはレクイエムのような大規模な作品を思い浮かべる方も多いかもしれません。しかし、歌曲はもっと身近で、もっと内面的な音楽でもあります。ひとつの声と限られた編成の中で、言葉と感情、時間の流れが凝縮され、音楽が何を語ろうとしているのかが、驚くほど明確に表れます。そして、楽器演奏においても、フレーズの捉え方や呼吸、間の感覚を見直すきっかけとなり、表現力を静かに、しかし確実に深めてくれます。

今期、この曲のレッスンを重ねる中で、私は、歌手の仕事が弦楽器や器楽奏者の何倍も大変であるということを強く実感しました。歌手は自分の身体そのものを楽器として使いながら、音程やリズムだけでなく、言葉の意味、発音、呼吸、感情表現を同時に成立させなければなりません。しかし、その厳しさの中で、音楽を「音」だけでなく、「語り」として捉える視点が育ってくるのではないでしょうか。ソプラノのNaomiさんが、シューベルトの意図などをパートナーたちに問いかける姿を拝見して、器楽だけの曲では見られない光景だと思いました。

実はこれまで、SOUPでぜひ歌曲を取り上げたいと提案しても、奏者のお申込みがなく実現できない日々が続いていました。今回、この作品を紹介してくださる三人の奏者様との出会いによりその思いがようやく形になり、感謝に堪えません。

ーーSOUP主催者

by nd

ブラームス

Johannes Brahms

ヨハネス・ブラームス

生誕:1833年5月7日(ドイツ連邦 ハンブルク自由市)
死去:1897年4月3日(オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン) 享年63歳

19世紀ドイツを代表する作曲家のひとりであり、バッハ、ベートーヴェンに続く「3大B 」として広く知られるブラームス。

ハンブルクの貧しい家庭に生まれたブラームスは、幼い頃から父に連れられて酒場でピアノを弾いて家計を助けていました。少年時代から作曲の才能を示し、20歳のときにヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムと出会い、それがロベルト・シューマン夫妻との運命的な出会いへとつながります。シューマンは若きブラームスの才能に驚嘆し、彼を「新しい道を示す者」と称賛。特に妻のクララ・シューマンとは、生涯にわたる深い精神的な絆を築きました。ブラームスはシューマンの病気と死に深く心を痛め、クララを支えました。ブラームスは生涯独身を貫きましたが、クララへの想いは深く、その存在は彼の創作において重要なインスピレーション源となりました。

彼の性格は内向的で、頑固で皮肉屋な一面もありましたが、友情に厚く、作品に対しては非常に厳格でした。自作の多くを自ら破棄したとも言われるほど、音楽に対する妥協のない姿勢を貫いた人物です。

ベートーヴェンの音楽を深く尊敬していたブラームス。その影響は交響曲やピアノ・ソナタにも色濃く現れています。それと同時に、民謡やジプシー音楽の要素を積極的に取り入れ、作品に豊かなリズム感と情感をもたらしました。伝統と革新を独自に融合させた彼の音楽は、当時の音楽界において保守派と見なされながらも、20世紀の作曲家たちに多大な影響を与えました。

William and Daniel Downey Joseph Joachim 1831 1907 Hungarian violinist conductor and composer 1890 MeisterDrucke 730638
ヨーゼフ・ヨアヒム

ピアノ五重奏曲 ヘ短調 作品34 第1楽章、第2楽章

この曲は、ブラームスの室内楽作品の中でも、とりわけ重厚で交響的なスケールをもつ名作として知られています。

本作は、1862年(29歳)頃に構想が始まり、試行錯誤を経て、約2年をかけて現在のピアノ五重奏曲として完成しました。

当初ブラームスは、この音楽を弦楽五重奏曲として書き進めていました。しかし完成後、親友であり助言者でもあったヨーゼフ・ヨアヒムらの意見を受け、「音楽があまりにも重く、弦だけでは響ききらない」と判断し、この形を自ら退けます。

次にブラームスが選んだのは、二台ピアノという形でした。音楽的な構造や対位法の緻密さは明確になりましたが、今度は「響きが硬く、作品の情熱が十分に伝わらない」と感じるようになります。実際、この二台ピアノ版を聴いたクララ・シューマンも、「非常に力強いが、これほどの音楽にはオーケストラ的な広がりが必要だ」と語ったと伝えられています。

こうした周囲の助言と、自身の厳しい自己批評を経て、ブラームスは最終的に「ピアノ五重奏」という編成にたどり着きました。ピアノの打鍵による推進力と、弦楽器の厚みある響きが結びつくことで、この作品はようやく本来の姿を得たのです。

完成に至るまでに一度書いた作品を否定し、形を変え、また書き直すという過程は、ブラームスの慎重さと誠実さを物語っています。

Robert and Clara Schumann Daguerrotype cropped
クララ・シューマン

第1楽章 Allegro non troppo(やや速く、ただし過度にならないように)

ヘ短調の力強いユニゾンで始まり、冒頭から強い緊張感と推進力をもって聴き手を引き込みます。ピアノと弦楽器がせめぎ合いながら音楽を前へ前へと押し出し、全体はまるで交響曲の一楽章のような迫力を備えています。重厚な和声と激しいリズムの中で、内省と情熱が交錯し、音楽が緻密に組み立てられていく様子が際立つ楽章です。

第2楽章 Andante, un poco adagio(歩くような速さで、ややゆったりと)

雰囲気が一転し、静かで深い抒情が広がります。弦楽器による穏やかな旋律と、それを包み込むピアノの和声が、瞑想的で落ち着いた空間を形づくります。中間部では一時的に緊張が高まりますが、全体としては内省的で、祈りにも似た静かな感情が貫かれています。第1楽章の激しさを受け止め、内側へと沈み込んでいくような対照が、この作品の精神的な深みを際立たせています。

第1楽章と第2楽章を通して、ブラームスは情熱と沈思という相反する要素を高い次元で融合させ、室内楽でありながら壮大な世界を描き出しています。

by nd